小錦さんの不妊・妊活情報!男性不妊で治療中。【妊活した有名人】
現在も不妊治療を行っている??小錦さんの不妊・妊活情報
小錦さんは、元高砂部屋所属の大相撲力士で、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島出身、現在は帰化して日本国籍となっています。
そして現在は、株式会社KPに所属し、KONISHIKI(コニシキ)の芸名でタレント活動を行っています。
そんな小錦さんは結婚後、なかなか子宝に恵まれなかったため、夫婦二人で病院に行ったところ、原因は小錦さんにあったようなので、今現在も不妊治療を行っているようです。
小錦さんの経歴は??
小錦さんは1963年12月31日に、サモア系移民の家庭に生まれ、両親は厳格で敬虔なクリスチャンだったそうです。
小学校から運動万能でありましたが、私立高校に入ると真面目だった素行が悪化して毎日喧嘩に明け暮れていたそうです。
心配した父がハワイ大学府増高校へ転向させると素行が元に戻り、スポーツと学業に身を入れ始め、アメリカンフットボールではオフェンスラインマンとして活躍し、4年生時にはハワイ州高校オールスターにも選ばれました。
以前から相撲部屋には、知人の元プロレスラーから勧誘されていたそうですが、高見山さんとも親しい人であったため、1982年(昭和57年)5月末にホノルルで完成した「高見山記念土俵」の土俵開きと墓参りで訪ねてきた高見山さんに紹介され、熱心に勧誘されたそうです。
小錦さんは家計を助けたいという気持ちもあって入門を決意し、泣いて反対する母を説得して、1982年(昭和57年)6月に入門、同年7月場所で初土俵を踏みます。
小錦さんは、入門すると元横綱朝潮である高砂親方に押し相撲の基礎を教え込まれ、また、若い頃は高見山さんに稽古をつけられ言葉や習慣の違いについても相談相手になってもらったり、いろいろと世話になったとのことです。
さらに、三水戸泉さんも小錦さんのよき理解者であり、水戸泉さんが優勝した場所においては、自らその優勝旗手を務めています。
そして、入幕2場所目、1984年(昭和59年)9月場所、前頭6枚目の地位で初顔合わせであった隆の里さん、千代の富士さんの両横綱から初金星を奪い、その他の上位陣もなぎ倒して12勝3敗という好成績を残し、殊勲賞と敢闘賞を獲得しました。1986年(昭和61年)1月場所で小結の地位で10勝を挙げ、同年の3月場所において同じく小結12勝を挙げて、技能賞も獲得しました。
この結果で関脇に復帰し、大関昇進を懸けた5月場所では、7日目まで3勝4敗と不調、さらに、当時大関であった北尾さんとの対戦において、じん帯を損傷・骨折という大けがを負ってしまい、この負傷により2場所連続休場を余儀なくされてしまいます。そして再び平幕の地位に転落してしまい、大関獲りも一旦振り出しに戻ってしまいます。
休場明けの1986年9月場所は、前頭4枚目から出直しとなりましたが、12勝3敗の好成績を残し、翌11月場所で関脇に復帰します。
さらに1987年1月場所で10勝、同年3月場所で11勝、そして同年5月場所は再び大関昇進を懸けた場所となりましたが、12勝という好成績を残しました。
これで、関脇の地位で3場所合計33勝12敗という好成績を残したため、小錦さんは5月場所後に念願だった大関昇進を、外国出身力士としては史上初めて果たします。
それから横綱昇進を期待されたものの、1988年(昭和63年)9月場所において3勝12敗という、15日制になってからの大関として皆勤での最多敗タイ記録の大敗を喫したりして、優勝争いに加わる成績はほとんど残していませんでした。
しかし、1989年(平成元年)11月場所で小錦さんは角番(通算4度目)でありながら絶好調であり、初日からストレートの11連勝を達成。
12日目に北勝海さんに敗戦しましたが、千代の富士さんに13日目の直接対決で勝利し、千秋楽で琴ヶ梅さんに勝って14勝1敗という成績で悲願の幕内初優勝を果たし、小錦さんは高見山さんに次いで史上2人目の外国出身の優勝力士となりました。
翌1990年(平成2年)1月場所で、小錦さんは初めての綱取りに挑戦しますが、10勝5敗という成績で終わってしまいます。
同年3月場所では13勝2敗という好成績で、優勝決定戦(巴戦)に進出しますが、惜しくも敗れてしまいます。
ただ、千代の富士さんが引退した1991年(平成3年)からは安定期を迎え、同年5月場所から翌1992年(平成4年)3月場所にかけて6場所で75勝15敗という好成績を残し、1991年11月場所、1992年3月場所で幕内優勝も果たしています。
かつてはこの成績なら当然横綱になれたのですが、「大関で2場所連続優勝」という内規を満たしていないとの判断により、日本相撲協会から横綱審議委員会への諮問は不運にも悉く却下され、当時の外国出身力士初となる横綱昇進は、結局最後まで果たすことはできませんでした。
そして、小錦さんは、1993年の11月場所で大関陥落し、1997年11月場所で現役を引退します。
小錦さん自身の不妊が発覚したため、まさか自分がと思い、相当落ち込んだそうです。
そんな小錦さんは結婚後は、幸せな夫婦生活を過ごしていたようですが、前述の通り、小錦さん自身の不妊が発覚したため、まさか自分がと思い、相当落ち込んだそうです。
小錦さんは、現役時代、怪我が発端で炎症を起こしやすかったそうで40度以上の高熱を何度も出したことがあったそうです。
また、怪我をする度に何度もレントゲン写真を撮ったり、痛み止めの薬を所定の量の何倍も飲んだりしたということが、不妊の原因となったのかもしれないと小錦さんは話されています。
小錦さんは具体的には、精子が精巣内にない「無精子症」と診断されたそうで、精巣内の精子の有無を確認する精巣検査を精子が有るという可能性にかけて受けてみたそうです。
ただ、それは自らの精巣(睾丸)を切開して精子を取り出す方法であり、気絶するほどの激痛だったとのことです。
その1回目の精巣検査では精子は発見されず、1週間後に行われた2回目の検査でも残念ながら発見はできなかったようです。
しかし、小錦さんは不妊治療を諦めておらず、今後も様々な方法を試していくそうなので、世の中の不妊で悩む男性のためにも、ぜひ頑張ってほしいなと思います。